王寺町時代
幼稚園の年長組の時に阿倍野区王子町に引っ越しました。
母の実家の並びの長屋が空いたので移ったわけです。ですから大家さんは私の祖父です。
第2次大戦の時にすぐ近くまで空襲で焼けたようですが、実家と長屋は奇跡的に残ったそうです。だから、かなり年期の入った家でした。
都島よりもまわりには空き地が少なかったような気がします。というか、実家の前の道は商店街の続きで、斜め向かいが映画館、向かいにはバーのようなものがありました。
今思うと、映画斜陽の時代でアダルトものをたくさんやっていたようですが、小学生低学年ではそんなものには興味がなくて、気がつくとその映画館は 廃業してました。
親父の実家が岐阜県の赤坂というところで、春、夏、冬の休みにはほとんど帰っていました。そこでは、近所の子供と一緒に小鮒を網ですくって採っていましたね。半日で100匹くらいかるく採れてました。
祖父は粋な人で、釣りの名人で、鯉や鮒、ナマズなどなんでも釣ってきて、自分でさばいていました。塗りの釣り竿なんか持っていて、それを私が折ったり時にはえらい剣幕でしたね。
かすかに実家で鶏を飼っていた記憶がありますが、定かではありません。岐阜は養鶏業が盛んで、近くに養鶏場があり、祖母はそこに直接行って卵を分けてもらっていました。
養蜂業者もいて、一升瓶に入った蜂蜜を買っていましたね。この蜂蜜はレンゲ蜜で、とってもおいしかったです。
ただ残念なことに、赤坂では昔から石灰石の採掘をしていたんですが、そのころから急に廃液を大量に川に流すようになって、川が汚れてきました。また、地元の子の話では農薬を使うようになったので、小鮒も少なくなったと言うのです。実際に去年たくさん採れた場所に、全く小鮒がいなかったのはショックでした。
でも、年に1回しか来れないので、頼み込んで遠くの秘密の場所につれてもらっていました。そこでは少しは小鮒がいたんですが、採ってしまうと来年は一匹もいなくなるかもしれないって、その子が言うのでその年は1匹も採りませんでした。
子供心に小鮒が少なくなったのを悲しんでいましたね。これがどうも、私が京大の農学部に行く伏線だったような気がします。
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